(一)
ある日曜日、誰にも名前を覚えてもらえない総理大臣が自宅の庭でビーグル犬の「ジョン・レノン」と遊んでいると、空からたくさんの風船が沈んできた。
風船の紐の先には、小さな本がくくりつけられていた。誰にも名前を覚えてもらえない総理大臣は本を手に取った。革で出来た表紙に
『ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそはすべて)』
と一言書かれているだけだった。
「そういえば、今日は、ジョン・レノンがうちにやってきた日だ!」
はたと気づいた誰にも名前を覚えてもらえない総理大臣は、こんなことをしてくれるのはあいつしかいない、と携帯電話を取り出し、官房長官の「マルちゃん」に電話をかけた。
呼び出し音が鳴っている間、誰にも名前を覚えてもらえない総理大臣は、何気なく本の表紙をめくってみた。少しあぶらっぽい白い紙に、彼の遺影が印刷されていた。
「なーに?」
耳元でマルちゃんの声がした。
仮眠から目覚めたばかりのマルちゃんの鼓膜に、轟音が雪崩れ込んできた。何かの音に似ていた。シュワちゃんの映画で何度も聞いた音だった。
あ、爆発音か。
気づいたときには、電話は切れてしまっていた。マルちゃんは全身から血の気が引いていくのを感じた。
マルちゃんは携帯電話をソファに放り投げると、落ち着くために秘書の「ゆかりん」のおっぱいに触ろうとしたが、ゆかりんはまだ来ていなかった。またメイクに時間をかけすぎているのだろうと思った。おちんちんが痒かった。実家の野沢菜がむしょうに食べたくなった。
何がなんだかわからなくなったマルちゃんは、ソファで眠ってしまうことにした。
ビーグル犬のジョン・レノンは、腰から上が吹き飛んだ(誰にも名前を覚えてもらえなかった)主人を見つめながら、肉の焼ける匂いに鼻をひくつかせていた。
(二)
戦争が始まる前は地方の動物園で象の飼育員をしておりました。
「バショウ」という名のオスの象でした。名前の由来は松尾芭蕉です。園長が名づけました。
バショウの目が、松尾芭蕉の肖像画のそれにそっくりだから、とかいう理由だったと思います。私にはピンと来ませんでしたが。
バショウは背からわき腹にかけて大きなシミがある、いつも眠そうな目をした、何とも無様な感じの象でした。
バショウはいつでも腹を空かせていました。さっき餌をあげたばかりなのに、気がつくと地面に散らばる何日も前の干草の切れ端を食べようとして乾いた鼻をコンクリートにこすりつけているような象でした。その度に私はちりとりに干草の切れ端を集め、バショウの鼻先に差し出してやりました。
バショウは別に嬉しそうでもありませんでした。だらだらと鼻を動かし、面倒くさそうに口に運び、食べ終えるとその場で寝てしまいました。
彼は、「食べる」という行為に疲れていたのかもしれません。バショウはそういう象でした。
私はといえばただのしがない飼育員で、同僚からは好かれてもいないし、嫌われてもいませんでした。動物たちも同じでした。みな私に興味がないようでした。
私はそれに不満を抱いたりはしませんでした。私は自分の凡庸さを知っていましたし、コミュニケーションが不得手な私にとって、そのような状況はむしろありがたいものだったからです。
それでもときどきむしょうに寂しくなるときがあって、そういう夜は、このままずっと目覚めなければいいのに、と思いながら布団をかぶるのですが、それでもやっぱり朝は来て、そしてその朝はやっぱり寂しいものでした。
(三)
戦争は突然始まりました。ナントカという総理大臣が爆殺されたあと、すぐに宣戦布告が発表され、都市の空を戦闘機が埋め尽くしました。
私たちの動物園も少しずつ平穏さを失っていきました。一週間に一度防空演習が行われ、動物たちの餌の量は少しずつ減っていきました。バショウはぼーっと空を眺めることが多くなりました。
ある日役所の人間が来て、動物園が戦火にまみれたときのことを考え、猛獣たちを殺処分しなさい、と言いました。園長は驚くほどあっさりそれを了承しました。
二週間後、曇りの朝、私は毒を仕込んだ野菜をバショウの檻に放り込みました。そして私は駆け足で檻から離れました。私はバショウがそれを食べるところを見たくなかった。
事務室に戻って一人でテレビを見ました。テレビは今日も死んだ人の数を淡々と伝えていました。何だか不思議な感じがしました。昨日も今日も、その数が変わっていないような気がしました。
私は、その日仮病を使って早退し、自室で(ちょうどバショウがしていたように)ぼーっと空を眺めていました。
それから、それにも飽きて、荷物をまとめ駅に向かいました。
(四)
ホームで電車を待っていると、線路に何かがドサリと落ちました。それは一冊の本でした。目をこらしてみると、革で出来た表紙に
『ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそはすべて)』
と一言書かれているだけでした。
私は空を見上げました。同じ本が次々と降ってくるのが見えました。そのうちの一冊は、ちょうど私の足元に落ちてきました。私は本を拾い上げ、表紙をめくってみました。少しあぶらっぽい白い紙に、私の遺影が印刷されていました。
町のあちこちから、花火みたいな音が聞こえてきました。私はバショウの目を思い出していました。
大きな目やにがこびりついた、眠そうな目でした。
(五)
長い眠りから覚めると、目の前に地平線が広がっていました。
地面はどこも赤黒く染まっていました。あちこちから煙が立ち昇っていました。建物は何一つ残っていませんでした。
実に静かでした。私も静かでした。詩でも書けそうな気になりました。
私はゆっくり立ち上がり、伸びをしました。そのとき私の背後で、がしゃり、と音がしました。
振り返ると、遠くにバショウがいました。
バショウは檻があった場所でしきりに何かを食べていました。お腹がパンパンに張っていました。私は苦笑いしました。
何か声を掛けようとしましたが、バショウは忙しそうだったのでやめました。バショウは口と喉をとてもなめらかに動かしていました。
私はしばらくバショウを見ていました。それ以外にすることはありませんでした。
すると突然古いなめし革を絞るような音がして、太い鉄パイプがバショウのお腹を突き破って飛び出してきました。檻に使われていた鉄パイプでした。そしてそれを合図に、コンクリート片や鉄骨などが次々とバショウのお腹のあちこちを突き破って出てきました。
バショウは涼しい顔をしていました。私は胸の底が冷たくなるのを感じました。
私はバショウに近づきました。バショウは動きを止めました。目やにだらけの目でじっと私を見ていました。
私はバショウの足元の瓦礫の中から、毒を仕込んだ野菜を掘り出しました。そして土を払ってすべて食べました。甘い味がしました。
風が吹きました。私はバショウの前に横たわりました。バショウは空を見ていました。
空には分厚い雲のほかに、何もありませんでした。私は目をつぶりました。
バショウの鼻が、私の体に巻きつきました。
このままずっと目覚めなければいいのに、と私は思いました。