トモコとマリコ

超短編を中心とした短い読み物を発表しています。

爪と指と腕

「爪」 アパートの隣室から、かれこれ三時間近く、爪を切る音が聞こえ続けている。 「指」 洗濯機から取り出した夫の古い作業着のポケットから、ぎゅっと小さく丸まった紙の塊が出てきた。広げてみるとそれは夫が書いた私の設計図だった。 指の動きの滑らか…

緊急事態

長いこと放置していた冷凍室の霜の奥で、小さな人影が小さな人影をビンタしていた。「寝たら死ぬぞ!」 という声がかすかに聞こえた。 映画とかでよくあるやつだ。 こんなところで見ることになるとは。 しかしそもそも彼らはどこを目指してここに迷い込んだ…

月には一匹の老いた猫がいる。 猫には蚤がついている。 猫だけがいる。 飼う人はいない。 飼う人がいないから、洗っていない。 洗っていないから、猫は痒い。 痒いから、掻く。 すると猫から蚤が飛び出す。 その蚤を地球から見たのが、流れ星の正体だ。 だか…

苺と苺

夜中の台所からひそひそ声が聞こえてきたので、何事かと思い見に行くと、テーブルの上に置きっぱなしで冷蔵庫にしまい忘れていたパックの中の苺たちが、明日の朝のためにやはりテーブルの上に置いておいた苺ジャムの瓶に向かって、何かひそひそ話をしている…

体調

朝起きたら喉が腫れていた。軽い風邪でも引いたのかと思い、通勤途中に薬局に寄ってのど飴でも買おうと考えていた。だが、朝食を食べている時、ごはんやおかずの塊がその腫れた部分に触れるたびに、家のインターフォンが鳴ることに気づいて、薬局なのか、医…

影が膨らんでいく

夕暮れ時、路地に伸びる自分の影が、いつもより濃いような気がした。 よく見ると、俺の影の中に、一回り小さい別の影が見えた。 俺の影に、影が生まれたようだった。それで濃く見えたのだ。 すると、俺はもうすぐ消えるらしい。俺の影が、次の俺になるために…

マザー

最近ハイハイを覚えたばかりの息子が、せわしなく部屋を動き回っている。「××!おいで!」 そう息子を呼ぶと、息子は、わざわざ俺のいる方のウィンカーを点け、直角に曲がって俺の足下へやってきた。 こういう几帳面なところはマザーにそっくりだ。 ちゅっ。…

だれ

せんせ。いま、胃カメラとすれちがったの、だれれすか?

影絵

絆創膏ちょうだい。 久しぶりに影絵のキツネなんか作ったもんだから、指、咬まれちゃった。 昔はあんなに懐いていたのにな。

七色

雨上がりの町へふらりと散歩へ出て行った飼い猫が、前脚を七色に染めて帰ってきた。こいつ、また虹で爪研いだな。

予報

ゆうべ、お母さんに殺される夢を見たよ。 てことは、今日は雨になるね。

ブレーカー

今夜は満月だった。そのことを忘れていた。電子レンジを使っていたら、ブレーカーが落ちて、夜空が真っ暗になった。今夜はうちが担当する日だったのだ。四方八方から、鳥獣や虫の不安げな鳴き声が聞こえてくる。 慌てて電子レンジのコンセントを抜き、ブレー…

雨も降っていないのにマンションの廊下が雨漏りしていたので、管理人に伝えると、管理人は管理人室のロッカーから錆びた鉗子とメスみたいなものを取り出し、ふっと大きく息を吐いた。 「なんですかそれ」「や」 管理人は暗い、強張った顔で、それを握りしめ…

半ば無理矢理参加させてもらうことになった初めての合コンに備え、柄にもなく眉毛を抜いていた時、とりわけ太い一本を抜いた瞬間、 ふしゅぅ、 と空気の抜ける音がして、俺は萎んで床に落ちていた。 俺がうかつだったのか、こんなところに栓を作る方がうかつ…

一応

「これは?」「ネジの頭です」「これは?」「ネジの頭です」「これは?」「ほくろです」「これはほくろ」「はい」「じゃ、こっから先が人間なんだ」「ま、一応」「ふーん」

近所に竹やぶがあり、そこに粗大ごみを不法投棄していく輩が後を絶たないのだが、その竹やぶには、時々、古いラジカセの幽霊が出ることがある。 悪さをしたり、脅かしたりはしない。ただごみの山の上にぽわんと浮かび、中島みゆきの「狼になりたい」を延々と…

光の尾

夜空の真ん中を、青い光の尾を引いて、地球から月へと真っ直ぐ、1ロールのトイレットペーパーが飛んでいく。 彗星とか、流れ星とか、見たことないけど、きっとあんな感じなんだろうな。 あの日空から聞こえてきた「紙取って」 の一言から、こんな美しい光景…

チョキ

じゃんけんで負けたらしいうなだれたチョキの手が、たくさんの雨雲を引き連れて、夕空の彼方へ消えていった。明日は大嫌いな運動会だから、がんばってもらいたかった。

幼い頃、絵本の猿にえぐり取られた右の目玉が、二十年経った今、隣町の図書館で見つかったと連絡が来た。あの絵本は捨てたものだと思っていたので、とてもびっくりした。 早速図書館に行き、目玉を返してもらうついでに、「あの猿はどうしました」 と司書に…

サイン

昼寝をしていた娘のいびきが、葉擦れの音へと変わっていった。 後で訊いたら、森の夢を見ていたというので、森に遊びに連れていったら、とても喜んでいた。 * 昼寝をしていた娘のいびきが、波の音へと変わっていった。 後で訊いたら、海の夢を見ていたとい…

何食った

お前、何食った。 そう問われて二日酔いの頭をフル回転させる。 ゆうべは会社の宴会があったが、珍しく呑み過ぎてしまい、途中から記憶がない。 何軒かはしごしたような気もするのだが、詳しくは思い出せない。 お前、何食った。 我が家の洋式便器から上半身…

細胞

煙草に火を点けようとしたが、ライターから現れたのは、炎のように赤い一匹の金魚だった。 金魚はからかうように俺の鼻先を尾びれでさっと撫で、こともなげに空へ昇っていった。 見上げると、頭上遙か高く、陽の光がまるで何かの細胞のような、ぶよぶよとし…

路傍

違うよ。 ここに子猫を捨てていく人がいるんじゃないんだよ。 ここに子猫を産んでいくおばさんがいるんだよ。

林檎

親戚から林檎が送られてきた。一つ磨いて、母の仏壇にお供えした。 その翌朝、幼稚園児の娘が仏壇の前に座って、何かそわそわしていた。「何してんの?」 と訊くと、「寝てたら、おばあちゃんが、××ちゃんが起きたら、これ、食べていいって、言ってたから、…

友情

結局、親友の××君の右目だけは、転校せずに済むことになった。 一時はどうなることかと思った。 なっ。

目覚め

目覚めると猛烈に腹が減っていたので、部屋の隅に放られていただるだるのジャージに袖を通し、サンダルを突っかけて、牛丼でも食いに行くことにした。 家の前の道を右左どちらに行けば牛丼屋に近いのかがわからなかったので、ひとまず右に行くと、先の方が、…

もぐら

明け方、新聞配達のために通りかかった飲み屋街の裏路地に、何か小さくてコロコロしたものがいくつも落ちているのを見つけた。 近づいてよく見るとそれは、すぐ近くにあるゲームセンターの、もぐら叩きのもぐらたちだった。アスファルトに体を投げ出すように…

始発

珍しく朝早くからの仕事が入り、眠い目をこすりつつ始発電車に乗り込むと、車内に木琴の音が響いていることに気づいた。発車のベルだろうか。それにしてはやけにぼんやりしたメロディだ。音のする方に目をやると、隅の席に、月が深く身を沈め、泥のように眠…

「この卵はちょっとわけありなので、タダでいいですよ」「……食べられるんですよね?」「気にしなければ」 家に帰って殻を割ってみると、殻の内側にびっしり寄せ書きが残されていた。 「孵化しても元気でね」「大好きでした」「食われんなよ!」 気にしないわ…

貯水槽

×月×日午前九時から十一時まで、 貯水槽の点検を行います。 点検中の水道のご使用はお控えください。 なお、点検後は各部屋すべての蛇口を開けていただき、 水から視線を感じなくなるまで、 充分流しっぱなしにしてからご使用ください。