超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ミッシェル

 ベッドの上の俺を優しく力強く締め上げながら、ナースキャップをかぶったその大蛇は、しなやかな尾の先でそっと病室の電気を消した。
 ブラインドの隙間から差し込む月の光を受けて、闇の中に美しい牙が浮かんでいる。
「ちょっとチクッとしますよ」
 大蛇はハーブティーの香りのする声でそうつぶやき、俺はゆっくりと頷く。
 数秒の静寂の後、細く冷たい感触が首に刺さった。
 大蛇が大きく息を吐き、俺を締め上げていた力を少し緩める。
「この後は」
 俺は大蛇に尋ねる。
「僕はあなたのお腹の中ですか?」
「いえ、私の仕事はここまでですよ。後は……」
 大蛇は病院の廊下の方へ大きく首をもたげ、
「……先生が」
 と続けた。
 耳を澄ますと、遠くからきびきびとした足音が近づいてくるのがわかった。
 主治医の若ハゲだろう。
 徐々に朦朧としてくる意識の中で、俺は大蛇に言った。
「……次はネズミに生まれ変わって、会いに来ます」
「それじゃ腹の足しにもなりませんわ」
「……じゃあ、牛かな」
「ふふ、今度はちょっと大きすぎ」
「……じゃあ……」
 大蛇は冷たい鼻先で俺の唇を塞ぎ、囁いた。
「人間に生まれ変わって、また会いましょう?今度は病院じゃない場所で。そうしたら私も……」
 大蛇が何か言いかけた時、病室のドアが勢いよく開いた。
 主治医の低い声とともに部屋の電気が点き、俺の視界は闇に包まれた。

急ぎ足

(夜中の2時頃。とある交差点。信号が赤に変わり、そこへ一台の車がやってきて止まる。)
(運転手がぼんやり信号を待っているところへ、目の前の歩行者用信号が青に変わり、女の生首がゆっくりと横断歩道を渡っていく。)

……あいつ、ここのところ毎晩見るなぁ。

(頬の肉も目玉も落ち、うじが湧いているような状態にも関わらず、女の生首はずるずると湿った音を立てながら、どこかを目指して夜の闇の中へ消えていく。)

……あいつ、すごい執念だなぁ。

(自動車用信号が青に変わる。車が走り去る。)

(翌日。)
(夜中の2時頃。とある交差点。信号が赤に変わり、そこへ一台の車がやってきて止まる。)
(運転手がぼんやり信号を待っているところへ、目の前の歩行者用信号が青に変わる。)

……あいつ、今夜は来ないのか。

(自動車用信号が青に変わる。車が走り出す。)

……あ。

(交差点から少し離れた場所にある歩道橋の階段を、女の生首が必死にのぼっている。)

……何だか知らないけど、今夜は急いでるみたいだなぁ。

(歩道橋の下を車が走り去る。)
(女の生首が目指す方向から、救急車のサイレンの音が響いてくる。)

今昔物語

 押入れの奥から出てきたスケッチブックに、小さな掌のスケッチが描かれていた。
 確か当時小学生だった私が、自分の掌を見て描いたものだ。
 懐かしい気持ちで眺めていると、突然掌がスケッチブックからにゅっと飛び出てきて、私のおっぱいをわしづかみにして霧のように消えてしまった。
 一瞬の出来事だった。
 シャツに残された鉛筆の粉をはたき落としながら、せめて何か感想をくれよと思った。

保護者の皆様へ

 小さい子の手が届く場所にハサミを放置しておいてはいけないとつくづく思い知った。
 昨日の夜、夕飯の片づけをしていたら、3歳になる娘が工作用のハサミを持ってベランダに出ていった。
 何か嫌な予感がして慌てて追いかけると、夜空に浮かぶ月がウサギさんの形に切り抜かれていた。

ハードボイルド

 将来を誓い合ったミミズに別れを告げる間もなく、ジャガイモは畑から掘り出され、鍋に放り込まれた。
 これでいいのさ。
 どのみち俺じゃあ、あの子を幸せにはしてやれない。
 鍋の外では、新婚の奥さんがエプロン姿のまま、帰宅した夫の首に抱きついている。
 奥さん、もう一度味見をした方がいい。
 スープに涙が混ざっちまった。

蝶を逃がす

 今朝も悲しい夢で目が覚めた。
 深くため息をつき、認めたくなかった言葉を心の中でつぶやく。
 やっぱり私たちは合わないみたいだ。
 パジャマを脱ぎ、胸を開き、心臓のファスナーを開けると、白く美しい蝶がのろのろと這い出てきた。
 何か言いたいのに何も浮かばない。
 黙って窓を開ける。
 蝶は太陽の光を全身に浴びながら、大きく羽を広げ、どこかへ飛び去っていった。
 からっぽの心臓に休日の風が冷たく染みこんでいった。